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ガヴォット第1番ホ長調第4楽章”エディ・カガ1273K ”

あるにも過ぎて人は物を言ひなすに、まして、 年月過ぎ、境も隔りぬれば、言たきまゝに 語りなして、筆にも書き止めぬれば、やがて定まりぬ。第4楽章はなぜかハ長調で語る60年史。

徒然草第25段


飛鳥川の淵瀬常ならぬ世にしあれば、時移り、事去り、楽しび・悲しび行きかひて、
はなやかなりしあたりも人住まぬ野らとなり、変らぬ住家は人改まりぬ。
桃李もの言はねば、誰とともにか昔を語らん。
まして、見ぬ古のやんごとなかりけん跡のみぞ、いとはかなき。



有名な方丈記の冒頭 ”行く川の流れは絶えずして・・・”
を思わせるような内容ですが、この段はあまり有名ではないようです。
桃李もの言はねば・・・ も ”桃李言わざれども下自ずから蹊を成す”
を想起させるけれどもここでは話し相手にならないことを嘆いています。


長明の もとの水にあらず が生物学的物質交代だとすれば
兼好の 淵瀬常ならぬ は地球科学的な地形変化であり
より長いタイムスケールで見ているようです。
実際このあとに藤原道長に対する言及があって
その建物がことごとく朽ち果てている様子から

されば、万に、見ざらん世までを思ひ掟てんこそ、はかなかるべけれ。

と結んでいます。
自分が死んでしまえば築き上げたものなどいつか朽ちてしまうのだから・・・
ということでしょうか

そうならば葬式や墓に金をかける必要はないはずです
もっと有効な使い道がいっぱいあるはず

古代より莫大な費用をかけて巨大な墓を作った権力者は
洋の東西を問わずたくさんいますが
死後のことになんでそんなに固執するんでしょうか


墓ではなく子孫のために貴金属や不動産を残す
という考え方もありますが
やはり自分が死ねば行く末を見ることはできません


そこで正反対の考え方として
宵越しの金を持たない というのもあります。
江戸の町は火事が多く、
一夜にして何もかも燃えてしまうことも多かったので
稼いだ金はその日のうちに使ってしまう というものです
瀬戸の陶工たちも同じような考え方だったみたいです

マーラーが 大地の歌 の第5楽章に使ったテキストの
もとになった李白の漢詩は


”人生が一場の夢に過ぎないならば
 富も栄誉も何の意味があろうか
 それより飲めなくなるまで終日酒に溺れよう”

こういう考え方のほうが説得力があります。